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近代の夜明け原文及翻译

近代の夜明け原文及翻译
近代の夜明け原文及翻译

第一课近代の夜明け

一八六〇年(万延元年)、日本政府最初の公式使节団、新见豊前守、村垣淡路守らの一行は、アメリカ船に搭乗、日米通商条约批准のために欧米に派遣された。これに随行した咸临丸は、わずか三百トン足らずの小军舰ながら、舰长胜麟太郎以下、日本人の手による最初の太平洋横断を决断し、使节団に先立って三月十七日サンフランシスコに到着した。乗り组みの一人は福沢谕吉がいた。はじめて西洋の地を踏んだかれらにとって、见るもの闻くものが、惊きの种であった。彼らは西洋人のダンスを见たとき、肩をむき出しにした妇人の服装や、手を取り合い、体を接して踊る男女の姿に目をみはった。日本の女性が公开の席で、肤をあらわにすることなどは、「男女七歳にして席を同じうせず。」という封建时代の习惯からは考えられないことだった。それに、男女が物をやりとりする场合でさえも、直接手から手へ渡してはいけないと戒められていたのである。

当时の正装した西洋妇人のスカートは、フープといって鲸の骨や籐の轮骨を入れて、钓钟のようにふくれていた。日本の使节たちは、外人のスカートがつまっているとすると、下半身が大変太っているものらしいと考えた。そこで一人の少年をそそのかし、スカートをつついてそれを确かめさせた。

一方、アメリカの市民たちは、髷を结い、帯刀した侍の行列を、珍奇な动物を见るような目で兴味深くながめた。

使节たちはヨーロッパを回ったが、咸临丸の一行のみは、アメリカから引き返した。途中ホノルルに寄り、プナホの学校の弁论大会に招待された。それは一行の福沢谕吉の兴味を引いた。かれは日本に帰ると、やがて公众の面前で堂々と意见を述べる训练を、自己の経営する学校に持ち込んだ。

日本の学生は、それまで「口は祸の门」(「童子教」)とか、「多言するなかれ、多言败多し。」(「孔子家语」)とかいうように教え込まれていたので、人前で声高く自己を主张する风になじめないようでった。このように江戸时代末期の日本と、西欧の文明国との风俗?习惯の隔たりは、きわめて大きかった。明治维新以降の日本は、それまで持たなかった技术や机械などの移入?利用に努めるとともに、政治形态や経済组织の方面でも西洋に追随するように努めた。风俗や生活の上でも急激に西洋化していった。一八八三年(明治十六年)に落成した日比谷の鹿鸣馆では、政府の高官の夫人や令嬢が、青い目の外国人を相手にして、ダンスをする风景が见られるようになった。こうして幕府の体制下に成人した人たちは、まったく违った二つの时代に生きる思いがあったのである。

このように明治の初期にあっては、西洋化がすなわち近代化であり、「文明开化」に努めることは、日本を封建社会から、近代社会に脱皮させる必要な条件であった。

しかし、风俗や物质生活の上での西洋模仿は容易にできても、精神生活の変革はそう简単にいかない。江戸时代は世界でも珍しく长い封建社会が维持された。その结果、士农工商の身分制度を坚く守られ、国民は支配阶级に忠実であり、でき上がった秩序を守ることがしいられていた。

「知足安分」(足るを知って分に安んじる)というのがその时代のモットーであった。生まれたときから身分が定まり、その外に出ることは许されない。そして一般の国民が政治向きに口を出したり、政治の方针を批判することは禁じられ、それをすれば処刑されたのである。

近代社会では、身分上の差别が除かれ、才能さえあれば社会の各方面に进出できるようになった。しかし个人の権利をあと回しにし、义务の遂行を先にした前时代の教育はまだ根强く残っていたから、个人の人権の主张や人间平等の近代思想は、なかなか民众の中にしみ込んでいかなかった。官尊民卑の考え方は、维新以降も长く残っていたのである。

福沢は「学问のすすめ」やその他の著书によって、こうした旧体制や旧思想の束缚を振り切って、人间を本来同等であり、自由?独立の存在であることを、说得力のあるやさしい文章で说いた。その自由?独立を守るためには、知识を开発して合理的な精神を养わなければならない。あらゆる人间が自己に目ざめ、自己の幸福の追求を生きる目的にすべきことを、かれは教えた。それが国家や社会の発展にもつながると、かれは说得したのである。

福沢の影响は大きかった。人々はかれの本を読んで西洋の事情を知り、目を开かれたのである。西洋の翻訳书を一时は「福沢本」と言ったほどであった。日本は急速に近代化し、その速度は世界史上の惊异と言われるが、それには福沢の力が相当强くあずかっていた。

もっとも、近代化がそんなに早く进んだ理由としては、すでに前时代にある程度の土台が准备されていたとい事情があった。「いろは六十七文字を并び、手纸の文言、帐合ひのしかた、算盘のけいこ、天秤の取り扱ひなど」(「学问のすすめ」)といった、生活に必要な教养を身につけた人々は多かった。だから维新前后の日本人が文字を知っていた率は、世界一とまで言われている。

それに锁国のため、西洋诸国との広い交渉はとだえていたとはいえ、オランダを通じて西洋の学问?知识は少しずつ移入されていた。それが军事?天文?地理?医学?化学といった実用の方面にかたよっていたとはいえ、十九世纪の初めには「兰和辞书」(ハルマ)も编まれ、知名の兰学者も百名を越えていた。福沢もこうした兰学者の一人であった。そしてかれを除く西洋の学问を修めた人々は多くは政府の役人や大学の教官となり、日本は东洋诸国の中で、最も早く宪法を持ち、国会を开くことができた。また最も早く、鉄道?病院?银行?邮便などの、近代的施设を备えることができたのである。

ところで、急速に社会改革をする时期にあっては、学问も実用的で、すぐ実际のっ要求に応じうるものが尊重された。真理である倾向が强かった。「学问の

すすめ」にしても、もっぱら「人间普通日用に近き実学」を勧め、そのために「西洋の翻訳书を取り调べ」また「横文字をも読ませ」ることを主张している。こうして西洋の文物や制度を学び、「文明开化」を推进することが、当面最も重要だったに相违ない。西洋化することが近代化だと信じることにも、それだけの理由はあった。しかしそれはその一面において、日本の伝统的な文化をすべて无価値だとする偏见、古いものを舍てて、新しいものにつくことのみが正しいという行き过ぎをも生じたのである。

ドイツの医者で、日本に招かれて、东京大学医学部の创建にも関系したベルツは、何人かの日本人に日本の歴史のことを寻ねた。するとある一人は、「実は日本は野蛮至极であった。」と答えた。他の一人は颜を赤くして、「われわれは歴史を持っていない。われわれの歴史は今から始まるのだ。」と叫んだ。それを闻いたベルツは、「今日の日本人は自分の过去について、何事も知ることを欲していない。」と考えた。そして、「日本固有の文化を、こんなふうに軽蔑することは、国威を外人に対して宣扬することにはならない。古代の文化でも、合理的なものは尊敬すべきである。伝统を基础としないで、そういう态度をとることは非常に损である。」という意味の感想を明治九年の日记の中に书きつけている。

事実として、日本の文化は、イギリスやフランスなどにも负けない、长い歴史を持っている。その间に、特殊な风土と国民性に根ざした文芸作品や美术を生产している。それらを产んだきめの细かい感情や微妙な感覚は、他国人に见られないほどに洗练され、优雅であった。

新しい社会は、新しい知识とともに、また人间の自然の性情に基づいて発生する新しい芸术を要求する。それはいくら外国からの影响を受けても、借り物でない自己を世界の中心にすえ、个人の価値を自覚して、その自由な表现を试みることにほかならない。

知性の开発を通じて人间性を広く开拓することが、近代日本を形成するために绝対必要だったとしたら、このほうは感情や感覚を新しくすることで、人间性を深める意味を持っていた。

文学にしても、他の方面と同じように、西洋の文化から、技术や思想上の変化に応じる、新しい创造を営まねばならなかった。

この种の文化活动は、急激な変革期には、どうしても政治的な解放や、知的な解放の后回しにならざるをえない。时代が少し落ち着いて、もっぱら外に放った目を自己の内侧に向けるようになってくると、押えられていた自己表现の欲望が、潮のように盛んに起こってきた。

一八八五年(明治十八年)から翌年にかけて出た、坪内逍遥の评论「小说神髄」が、まず近代の市民社会に适応すべき、新しい小说の方法を说いた。続いて、二叶亭四迷の小说「浮云」が、一八八七年(明治二十年)に出て、一般の人には见えない无形の真理を具代的に描き出して、人生を批评することが小说の使

命であることを実证した。こうした前时代とは性格の违った近代文学が、次第筑かれていったのである。

岛崎藤村は、近代文学の根がようやくすえられたこの时期に出て、「若菜集」以下の诗集によって、この时期におい立った青年の、歌おうとして歌いかねていた新しい感情を、直接に表现しようとした。藤村はのちに、诗人として出発した当时の自分を振り返って言っている。「诗を新しくすることは、私にとってことばを新しくすると同じことであった。『春』ということば一つでも生き返ったときの私の喜びはどんなだったろう」と。

ことばを新しくするとは、ことばに潜む情热を新しく掘り起こすことである。ことばの持っている因袭に反抗することである。そうしてそれは时代や社会の厚い壁に闭ざされていた人间性の解放を、ことばを通じて行うことにほかならない。

藤村は伝统的な诗歌の情感や调べに、新しい生命を吹き込むことで、若い时代精神を、酔うように表现した。かれは、

心の春の烛火に

若き命を照らし见よ(「酔歌」)

と、国民感情の「春」に、自己の「春」を重ね合わせた喜びを高らかに歌ったが、しかし时代はなお、

あたたかき光はあれど

野に満香りも知らず

浅くのみ春は霞みて

麦の色わづかに青し(「千曲川旅情の歌」)

という、まだまだ浅い「春」の景色であった。

したがって、近代日本のまだ薄暗い青春期に生きた「新しきうたびと」の声は、しばしば「叹きとわづらひ」に掻き昙らざるをえなかった。かれは心情の処女地に、早く目ざめたものの孤独の悲哀と感伤とを、莳きつけていったのである。しかしそれはそれとして、自己の生を含めた大きな时代の动きを、深いところでとらえたものであった。

こうして日本の近代は、知的にも感情にも、革新の光明を仰ごうとする、夜明けの时期を迎えていったのである。

第一科近代的凌晨

一八○年(万延元年)、日本政府首次正式使节团,新见牛市丰前守和村垣淡路守等一行从美国乘坐船,美日两国通商条约批准西方派来的。对此,随行的咸临丸只有300吨的小军舰,舰长胜麟太郎以下,日本人的手的最初的太平洋横穿马路做出决断,使节团之前三月十七日旧金山回国。乗り组み中就有一个人是福泽谕吉在。第一次西方的他们来说,听的,令人惊讶的种子。他们在西洋人的跳舞的时候,

肩膀地望着那位妇人的服装和联手将身体接触的男女跳舞,突然睁大了眼睛。日本的女性在公开场合,我还在继续等,但是“男女七岁早已同样起身离座。”的封建时代的习惯无法想象的事情。而且,东西的做法,如果直接对给谁也不能被。

当时的正装的西方夫人的裙子,即使フープ鲸鱼的骨头或藤条编制的骨头,钓钟一模一样。日本的使节们,外人的裙子正被塞住,奉重根(23岁)很胖。。于是一名少年,裙子,并且找到住。

相反,美国的市民们可以通过后,带的武士的行列,珍贵的动物似的眼神看着有趣。

使节们欧洲,但咸临丸一行只,从美国撤回。途中,在火奴鲁鲁プナホ学校的辩论大会的邀请。这一行的福泽谕吉的引起了社会各界的关注。他回日本的,不久便和公众面前堂堂正正地不错,所以训练,自我经营的学校。

日本学生期望,他把嘴祸之门”(《童子教”,全球多勿语言负。”(《孔子家的故事》)等方法。因此预计,高声自我主张的习惯不一样でっ。这样的日本江户时代末期,西方文明国家和风俗、习惯的差异非常之大。

明治维新以来日本:这段具备了技术和机械等投入工作,利用政策和经济组织方面也西方追随一样地努力。风俗和生活上的身材,西洋化。一八八三年(明治十五年)落成的日比谷的鹿鸣,政府高层负责人的夫人、小姐,蓝眼睛外国人,跳舞的风景。这样幕府的体制,成人的人说,完全不同的两个时代生活的想法。

这样在明治初期,西洋化即现代化,而且“文明开化”,这是日本封建社会风气下,

近代社会摆脱必要的条件。

但当时却因“和物质生活上的西洋模仿不太可能,精神生活的变革似乎难以轻松。江户时代,这在世界上也罕见长封建社会仍维持着。结果,所谓“士农工商”身份制从来没有遵守,国民们为支配阶级,完成的秩序,守护的。

“想不明白。”(分安知足知道分安能)是那个时代的座右铭。从我出生起身份,除此以外,都将会出现。然后,一般的国民在政治方向提出批评,政治的方针是可以被禁止,如果被处死。

现代社会里,身份上的差别,只要有才能进军社会各方面。但是个人权力而推迟履行义务,先的时代的教育还没有完全平息了,个人的人权的主张和人类平等的近代思想,就很难再骨子里民众之间。官尊民卑的想法是在维新以后也很长一段时间里还没有结束。

福沢对“学问的建议”和其他著作,所以短期内这一旧体制和旧思想的束缚,获得了人类基本相同,自由、独立的存在,具有说服力的温柔的文章。这个自由和独立性,是知识,开发出了合理的精神支柱。所有的人类世界的情况下,究竟自己追求幸

福的生活着的目的,应做的事情,因此金田一耕助告诉他。这是国家和社会的发展做出贡献,在说服了好长一段时间。

福泽的影响是巨大的。人们在他的书,西洋的情况后,举行了好长一段时间。西洋的翻译书,曾一度认为“福泽书”。日本正在迅速近代化成果,并且速度在世界历史上的不可思议,但在这里有福的力量相当强烈地。

不过,由于近代化这么早就下滑(韩元升值)的理由是,已经过去有某种程度的基础开始着手准备一下情况。“文字六十七而苦恼,信的内容,帐合喜欢我的方法中,那儿的算盘之妻言夫信口扱的学问”等,)”的建议下生活所需的教养的人还有很多。所以维新前后日本人文字知道率,可以说是世界第一的说法。

再加上了好长一段时间,西方国家和广阔的协商自言自语地反问不是因为喜欢,通过荷兰西方的学问、知识是一点点,会让人。这是军事天文地理、医学、化学等实用的方面偏重于不是在十九世纪初,表示:“兰和词典”(ハルマ)也缝制,名气的兰学者也百余名以上。

福泽也对此做出了兰学人之一。然后他之外,西学律师的人是政府官员和大学的教官,日本是亚洲国家中最早宪法,召开临时国会。另外最快、铁路、医院、银行、邮局等,有威胁的设施。

对了,迅速社会改革的时期,实用学问之后,直接乘坐到警察厅接受调查实际可能受到尊重。与此趋势非常明显。“学问的建议”,也称之为“人类一般日杂示之实学”,并为此“西洋的翻译书,而且调查横写也看”。

这样西方文明和制度,并学习,用“文明开化”计划,这是当前最重要的恐怕是没有什么区别。西洋化的近代化”,这也对其原因的。但是对方面,日本的传统文化全部毫无价值的偏见,而且放弃了这一调查结果新事物,做到这这一过分的。

德国的医生,日本的邀请,正在东京大学医学院创建不无关系的ベルツ,几个日本人日本的历史的事。于是一名表示:“日本是野蛮蕴含着的。”回答了。另一个人来说却红着脸说:“我们有悠久的历史。我们的历史,现在开始的。”。

听了ベルツ(音译)表示:“今天日本人自己的历史教科书,什么事也知道事情的欲望。”。他还说:“日本固有的文化这样蔑视的,这是对外国人为发扬国威的待遇。古代文化,合理的东西是值得尊敬。传统为基础,采取这种态度,一种损失。”的意思的感想时,明治9年的日记里写在纸上。

事实上,日本的文化,英国和法国等不亚于其悠久的历史。在此期间,曾有一种特殊的作风和国民性的土著文艺作品和美术。这些生下的感情和微妙的感觉让其他国家人很难看到娴熟的球员,他是以优雅。

新的社会,新的知识一样,人的自然性情基础上的新艺术。即使收了外国的影响,一边感受的世界的中心,个人的价值,清楚地意识到自己的自由发表的指示。

通过开发智慧广泛开拓人性对近代日本的形成绝对必要的话,那么通过这样的方法使得感情,感觉焕然一新,深化人性敲一记警钟。

文学,另一方面一样,西洋的文化,技术和思想上的变化,创造新成立。

这种文化活动,希望犹存,就政治解放和知识方面的释放抛在了脑后。时代稍稍放下心来,是专门做外击出的眼睛,应把精力放在内侧的自我,吸引了人们的自我表现的欲望,都潮一样地了。

一八1985年(明治十八年)开始到第二年的坪内逍遥的评论《小说本色”,就应该先近代市民社会适应,对于小说的方法。之后,二叶亭四迷的小说《浮云”,1987年(明治二十年来,一般的人是看不见无形的真理具式,人生批评说,他创作的小说是使命。这样的过去,在性质上的不同,在近代文学确立了。

岛崎藤村是近代文学的根后终于被这个时期说:“若菜集》以下的诗集,这段时间里,站在了作为唱唱歌。新的情感,直接了。藤村叔是才回过神来,一名诗人出发的当时的自己回想起来。“诗焕然一新,给我所说的话,重新相同。春天,哪怕一词复活的时候的我的喜悦是什么吗?”。

语言是焕然一新,潜在的热情,并重新挖。“话”的拥有因袭抗拒。后来在时代和社会的障碍,被释放的人性,通过协商。

藤村叔是传统的诗歌的情感和调查,给那些年轻时代精神和喝醉了酒。他说: 烛春天的心的火

年轻的生命,让(《醉歌”)

,但国民的感情的“春天”世界的情况下,“春”,赤西仁的喜悦而唱的,但仍然没能从时代

あたたかき光有

野外满香气都不知道

浅只春天是水汽弥漫,月亮

大麦的颜色。千曲川(青し,抓着这之歌》)

浅,还差得远的“春天的景色。

因此,近代日本的阴暗的“活着的“新うたびと”的声音,也经常呻吟和思想。掻き昙ら之妻言夫信口”。他的’,但究竟走极端的悲哀与孤独的时候了,只要晒晒火炉上采用了。但是,自己的生在内的重大的动向与深的地方,获得了。

这样的日本近代,以知识,情绪也要遵循光明的革新,黎明的时期了。

《子夜》讲解

子夜 ●名著解码:155 1: 一条主线:吴荪甫与赵伯韬斗法 5:五个阶段:多空多空空 5:五句主旨: 1、民族资产阶级不可能领导中国革命。(原因:民族资产阶级 的软弱性,斗不过官僚资产阶级和无产阶级的联合斗争。) 2、资产阶级作为整体不可能领导中国革命。(原因:资产阶级 内部的斗争,反映了资产阶级的不稳定性。) 3、只有无产阶级才能领导中国革命。(原因:中国处于半殖民 地半封建社会,而不是资本主义社会,另外,资产阶级的 特性使其无法领导中国革命。) 4、无产阶级领导革命胜利的原因。(原因:官僚资产阶级、地 主阶级、军阀、帝国主义等敌人的内讧与混战。) 5、无产阶级领导革命必须走农村包围城市的道路。(原因:敌 人过于强大。) ●核心情节突破 核心情节一:吴老太爷之死 ?宏观把握 情节再现 吴老太爷本不愿意到上海,但由于土匪作乱,红军燎原,让老太爷高卧家园,委实不太妥当。为了表达孝心,吴荪甫将老太爷接到上海。然而,满脑封建、顽固不化、只以《太上感应篇》为护身法宝的老太爷在目睹了城市光怪陆离的现代文明后,受到强烈的刺激,终于在进入家门后气绝身亡。(一) 在吴老太爷的送殓仪式上,众多主要人物陆续亮相。但他们却借着老太爷的丧礼寻欢作乐,暗做交易。吴荪甫也在此时决定放手做公债。(二)然而,公债市场是没有硝烟的战场。吴荪甫在赵伯韬和罢工潮的双面夹击下惨败,而赵伯韬也因这明争暗斗而耗尽精力,只有工人们的斗争热情在继续燃烧。 阅读反思 吴老太爷是封建地主阶级的代表,他的出走,反映了三十年代农村革命风暴的到来,而他的死亡象征着中国封建制度的必然崩溃。另一方面,资产阶级的革命由丧礼而始,也预示了他们必将以“丧礼”而终。在救亡中国的革命道路中,资产阶级的软弱性与不稳定性决定了他们不可能成为领导者。

部编版七年级上册语文第15课《诫子书》课文原文及教案

部编版七年级上册语文第15课《诫子书》课 文原文及教案 课文 【作者】诸葛亮【朝代】三国时期 夫君子之行,静以修身,俭以养德。非淡泊无以明志,非宁静无以致远。夫学须静也,才须学也,非学无以广才,非志无以成学。淫慢则不能励精,险躁则不能治性。年与时驰,意与日去,遂成枯落,多不接世,悲守穷庐,将复何及! 教案 教学目标: 1、掌握关键词句,理解文章内容。 2、研读课文,积累名言警句。 3、背诵课文,汲取精神养料。 课时安排:1课时 教学过程 一、导入 作者:诸葛亮(181-234),字孔明,琅玡阳都(今山东沂南南)人,三国时蜀汉政治家、军事家。他一生立志“兴复汉室,还于旧都”,为此鞠躬尽瘁,死而后已;他更以淡泊明志,宁静致远的高风亮节言传身教,惠及子女。今天让我们一起走进他的《诫子书》,聆听他对子女、后人的谆谆教诲。《诫子书》,告诫儿子的

一封家书。 二、初读课文 老师范读,学生勾画生字词。注意句子的停顿。 如:夫/君子之行,静以/修身,俭以/养德。 非淡泊/无以明志,非宁静/无以致远。 非学/无以广才,非志/无以成学。 淫慢/则不能励精,险躁/则不能治性。 年时/与驰,意与/日去,遂成/枯落,多不/接世,悲守/穷庐,将复/何及! 学生自由读课文。 听朗读录音,体味语调、语速的变化,揣摩作者情感。 学生再自由读一遍课文。 三、精读课文。 1、小组合作,借助注释疏通文意,互相质疑解难,尝试翻译课文。 难点:(1)词语广才——增长才干。励精——振奋精神。治性——修养性情。驰——疾行,指迅速逝去。 (2)句子非淡泊无以明志,非宁静无以致远。非学无以广才,非志无以成学。年与时驰,意与日去,遂成枯萎,多不接世。 提醒学生翻译课文时不能直译的便意译,无论哪种译都要保留原句的句式特征。以第二个句子为例:年华随着时光飞驰,意志随着岁月流逝,最终枯败零落,对社会无益······ 2、总结交流: 四人一组互相翻译课文,交流指正。选2名学生朗读自己的

西湖七月半

西湖七月半 预习案 一、文学常识 1、本文作者()字宗子,又字石公,号(),浙江山阴人。 2、张岱文学创作以()见长,本文就是一篇() 3、张岱作品的内容() 4、张岱作品的风格()。 5、张岱主要作品() 探究案 二、分析课文 原文: 西湖七月半,一无可看,止.可看看七月半之人。 重点字词: 分析课文: 1、本句作用是什么?答:开篇明义,领起下文,描摹世风民情 原文: 看七月半之人,以五类看之。其一,楼船箫鼓,峨冠 ..,声光相乱.,名为看月 ..盛装,灯火优傒 而实不见月者,看之;其一,亦船亦楼,名娃闺秀,携及童娈 ..,笑啼杂之,还坐露台,左右 盼望,身在月下而实不看月者,看之;其一,亦船亦声歌,名妓闲僧,浅斟低唱,弱管轻丝 ........., 竹肉相发 ..,酒....,亦在月下,亦看月,而欲人看其看月者,看之;其一,不舟不车,不衫不帻 醉饭饱,呼群三五,跻.入人丛,昭庆、断桥,嘄呼嘈杂,装假醉,唱无腔曲,月亦看,看月者亦看,不看月者亦看,而实无一看者,看之;其一,小船轻幌,净几.煖炉,茶铛旋煮,素 瓷静递,好友佳人,邀月同坐,或匿影 ..里湖,看月而人不见其看月之态,亦不 ..树下,或逃嚣 作意 ..看月者,看之。 重点字词: 分析课文: 1、本段写了几种人?其情态如何? 2、本段语言特色? 3、举出语言生动传神的句子?

4、举出笔调轻松随意诙谐的句子? 5、“匿影 ..树下”者在后文有没有出现过? 6、、不舟不车,不衫不帻,酒醉饭饱,呼群三五,跻入人丛,昭庆、断桥,嘄呼嘈杂,装假醉,唱无腔曲 这是写的第几类人?作者对他们持什么态度? 1、这段话可见,作者最欣赏哪一种人? 原文: 杭人游湖,巳出酉归,避月如仇。是夕好名,逐队争出,多犒门军酒钱,轿夫擎燎,列俟.岸上。一入舟,速.舟子急放.断桥,赶入胜会。以故二鼓以前,人声鼓吹,如沸如撼,如魇如呓,如聋如哑;大船小船一齐凑岸,一无所见,止见篙击篙,舟触舟,肩摩肩,面看面而已。少刻兴尽,官府席散,皂隶喝道去。轿夫叫船上人,怖.以关门。灯笼火把如列星,一一簇拥而去。岸上人亦逐队赶门,渐稀渐薄,顷刻散尽矣。吾辈始舣.舟近岸。断桥石磴始凉,席.其上,呼客纵饮。 此时月如镜新磨,山复整妆,湖复颒面 ..。向之浅斟低唱者出,匿影树下者亦出,吾辈往通声 气,拉与同坐。韵友 ..来,名妓至,杯箸安,竹肉发。月色苍凉,东方将白,客方散去。吾辈 纵舟 ..,酣睡于十里荷花之中,香气拘人,清梦甚惬.。 重点字词: 分析课文: 1、本段写作上的特点是什么? 2、本段写了哪些人对比? 3、分析“杭人游湖”与“吾辈”赏月构成对比情景? 4、本文主题?(立意)如何评价? 5、作者怎样将景人结合起来的? 6、“杭人游湖”是否包括“吾辈”?

汉书食货志上译文

《尚书·洪范》篇论述先王治理国家的八项政务,一是农业生产,二是工商贸易。农业生产说的是要种植好的五谷作为粮食;工商贸易说的是适宜穿的布和丝织品及用的金银铜铁铅龟壳贝壳钱币等,由于有这些东西,老百姓赖以生财牟利,互通有无。二者都是关系国计民生的头等大事,它兴起于神农氏时代。据说神农氏,“砍削木头做耜(一种类似锹的农具),弯曲木头做耒(象木叉的农具),并以耕耘的好处,教导百姓”,从此,粮食便充足了。那时实行“中午开始集市贸易,招徕全国的百姓,聚集各地的财物,交易完了就回去,各人获得自己所需的东西”,因而财物便开始流通了。由于粮食充足,财物流通,这样国家才会殷实,人民才能富裕,因而教育感化人民的事情才得以实现。到皇帝以后,据《易经》的记述,“这时器币使用不便利,于是便改变币制以利于通行,使百姓乐于他们的事业而不劳累”。据《尚书.虞书.尧典》篇叙述,陶唐氏尧在位的时候,命令羲仲,羲叔,和仲,和叔四人教导人民按农时进行生产活动”;《尚书.舜典》篇记述,有虞氏舜当权的时候,命令后稷解决“老百姓开始陷于饥饿”的事,可见,他们都是把农业生产放在施政的第一位。到夏虞氏代,治理洪水,把全国划分为九个地域,规划好土地田亩,各地按照居住远近情况,交纳赋税和贡献土产,劝勉百姓们互通有无,以满足彼此的需要,从而使万国共享太平。殷商,西周出现的兴盛时期,正如《诗经》,《尚书》上所叙述的,关键在于使百姓们安居乐业,生活富裕,同时教育他们。所以,《易经》指出,“天地最大的恩惠就是使万物生长,君主最宝贵的东西就是政权;用什么来巩固政权?就用仁爱:用什么来团聚百姓?就用财物。”财物这个东西,帝王用来团聚百姓,巩固政权,养育芸芸众生,遵奉顺应上天的恩德,可说是治理国家安定人民的根本。因此,有人说:“一个国家,不担忧财物少只担忧分配不平均,不担忧贫穷只担忧不能让百姓安居乐业;大概分配平均就无所谓贫富,国家团结就不愁人少,百姓安定就没有倾覆的危险。”所以,贤明的君主统治百姓,要修筑城堡让百姓安居,规划房屋井田以平均土地,开设街市商店使财货流通,设立学校以教育百姓,

采桑子·清明上巳西湖好原文-翻译及赏析

采桑子·清明上巳西湖好原文|翻译及赏析 写作背 北宋皇祐三年(1049年),欧阳修赴颍州任职。颍州的西湖是当时的游览名胜,欧阳修被那里的旖旎光陶醉了,他把颍州选为晚年居住之所,多次来往其地,并一连写下十首《采桑子》吟咏西湖胜景。这十首词意境优美,风采各异。这首《采桑子》是其中的一篇。 作品鉴赏 这首词是写清明时节西湖游春的热闹繁华景象,从侧面来写西湖之美,着意描绘游春的欢乐气氛。古时以农历三月上旬巳日为上巳,这一天历来有到水滨踏青的习俗。《梦梁录》卷二载:三月三日上已之辰,曲水流觞故事,起于晋时。唐朝赐宴曲江,倾都禊饮踏青,亦是此意。《东京梦华录》也记载:四野如市,往往就芳树之下,或园囿之间,罗列杯盘,互相劝酬。都城之歌儿舞女,遍满园亭,抵暮而归。这就可以看出是郊外人们游春的盛况。西湖景色迷人,是游人的最佳去处。看绿柳丛中,车如流水马如龙,争相抢道,西湖岸上,游人如织,各色人等都在享受欣赏着大好春光。词人自己也乘着朱轮钿车加入了这欢乐春游的队伍。 词上片描绘的是一幅白天西湖春游图。下片写游人返归的景象。日暮时分,酒醒了的、还在醉着的,前后相将归家。从西湖弯斜的堤

岸一直到城头,一路之上,头攒动。直到城头总是花,这里既指从西湖到颍州城下的路边鲜花盛开,又当指一路上游人皆头上簪花而归。唐宋时,人们有采花簪头之俗,无论男女。如杜牧《九日齐安登高》中即写道:尘世难逢开口笑,菊花须插满头归。苏轼《次韵苏伯固主簿重九》说道:髻重不嫌黄菊满,手香新喜绿橙搓。刘克庄《上巳》也有句云:暮归尚有清狂态,乱插花满角巾。可见,直到城头总是花,写的是人们春游而归,头上簪花络绎回城的情景。 清明上巳时节,是古人往水边游玩的时侯。以这样一个游览的时节,再加上西湖这样一个游览胜地,真可谓良辰美景,两者铸备,热闹景象自是非同寻常。本词所表现的正是一派盛景,满目繁华即为全词的核心。 满目繁华的特点,首先体现在对游者的描写上,这也是作品表现的重点。游者一是多,二是欢。游者之多,在词中写道:争道谁家,绿柳朱轮走锢车。这一句写了两种不同的游者,一种是乘车者,一种是徒步者。车多,才会引起人们的争相指点;行者多,也才可能出现争道的景状。最后这两句用寥寥数字,展示出了一个毂击肩摩的游览盛况。另外,下片喧哗一词,又从音响的角度突出了游者之多,以西湖这样的敝廓之地,竟有人声鼎沸之感,那行人熙来攘往的情景是可想而知的了。何以见出游者之欢?从上述行人争道谁家车的描写中,已传出一片欢快活跃的气氛,接着写游人日暮归返时的醒醉二字,更是道尽了游者各各相异的神态。这令人想起明代文学家张岱在《西湖七月半》一文中对各种赏月人的生动描写:他们有的浅

汉书 艺文志 翻译

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《汉书·艺文志》参考译文 从前,孔子死后,经学深远精要的言论的传授就断绝了,孔子的七十多个高才弟子死了以后,儒家思想学说的深邃之义也就产生了分歧。因此《春秋》被分成五家的传注,《诗经》分成了四家,《易经》有好几家的传注。战国时代,纵横错杂的政治形势,百家竞起,真伪混淆,互相分辩争鸣,诸子之言纷繁杂乱。到了秦代,秦始皇对这种形势产生了忧虑,就下令焚烧天下书籍,用来使百姓愚昧无知。汉朝建国之初,高祖革除了秦朝的弊政,大力收集各种文化典籍,广泛地开辟献书的途径。到了汉武帝时代,书籍的文字残缺,简册脱落,礼乐制度衰败崩溃,皇上感叹地说道:“我很痛惜这种形势啊!”于是就建立了藏书的策府,设置抄写书籍的官员,下至诸子百家的着作及民间传说,都集中到内廷秘籍之府。到汉成帝时代,因为图书严重地散失亡佚,就派遣谒者陈农向天下征求遗失散落的书籍。命令光禄大夫刘向校勘经书与传注、诸子之书及诗赋之作,命令步兵校尉任宏校勘兵书,太史令尹咸校勘天文、历法、占卜等“数术”之书,侍医李柱国校勘医药方技之书。每一种书校勘完毕,刘向就分条列出它的篇名题目,摘取归纳它的内容大意,抄录下来,上呈给皇帝。适逢刘向死了,汉哀帝又让刘向的儿子侍中奉车都尉刘歆完成他的父亲的事业。刘歆于是汇总群书而向皇上进呈他的《七略》,因此有《辑略》、有《六艺略》、有《诗赋略》、有《兵书略》、有《术数略》、有《方技略》。现在,我删去《七略》中的浮辞,选取其中的要点,用来使这部目录学着作完备成篇。 医经是推究人的血脉、经络、骨髓、阴阳、表里等生理特征,用来阐发各种疾病的根源,区分死生的界限,并且用它推断针刺、砭石、汤药、艾灸等施治的方法,调制各种药物配方的适当比例。最恰当的药剂的作用,好比磁石吸铁,依靠药物之间各自的性能,互相促进发挥作用。技术拙劣的医生违背医理,把容易治好的轻病治成了重病,把能够救活的病人治死。 医学经典中的方剂,是根据草木矿物等各种药物的寒温性质,诊察疾病的深浅程度,凭借药物的治疗作用,考虑人对四时气候感受适应的情况,辨别五脏六腑所适宜的各种药物的性味,制成寒凉温热性能不同的药剂,用来疏通闭塞,解除郁结,使身体回复到正常。至于治疗失当的医生,用热药来增加病人的内热,用寒药来增加病人的内寒,造成精气在内里受伤,却不能在外表显露,这是他们严重失误的地方啊。所以有句谚语说:“有了病不去找那种庸医治疗,自行调养,也能自愈,常常能符合医理。” 房中着作,是使男女情爱性情达到极点,运用最高深的房中养生之道进行交合的着作。因此先代英明的帝王制作室外音乐用来节制房中的情欲,并为此节制修饰。《左传·昭公元年》说:“先代圣王制作音乐,是用来节制各种事情的。”房中着作能使人既享房事之乐,而又有所节制,那么就会使人气血平和,寿命长久。至于那些沉迷色欲的人不重视房中养生之道,因而就导致疾病,甚至断送性命。 神仙学着作,是用来保养人体生命的真元之气,而向身外大自然广求养生之道的着作。姑且用来净化意念,平定心境,把死与生的境域视为相同,因而在胸中就没有什么害怕了。然而有的人专门把这种事情作为职务,那么荒诞欺诈怪异迂曲文章就越来越多,这就不是圣明帝王的教化了。孔子说:“求隐暗之事,行怪异之道,后世是有人遵循的,但我不做这种事情。”医药方技,是使生命生长不息的工具,是天子之官的一种职务。远古有名医岐伯、俞拊,中古有扁鹊、医和,他们都能从诊察分析国君的病情,而推论分析出国情;根据诊视国君证候,而推知国家的政事。汉朝建立后有名医仓公。现在,他们的医术被埋没,所以要编纂整理他们的着作,并依次排列医药书为四种。 2

诫子书原文加拼音及译文版

jièzǐshū 《诫子书》 zhūgěliàng 诸葛亮 fūjūn zǐzhīxíng jìng yǐxiūshēn jiǎn yǐyǎng dé 夫君子之行,静以修身,俭以养德,fēi dàn bówúyǐmíng zhìfēi níng jìng wúyǐzhìyuǎn fūxué非淡泊无以明志,非宁静无以致远。夫学xūjìng yěcái xūxuéyěfēi xuéwúyǐguǎng cái fēi zhì须静也,才须学也,非学无以广才,非志wúyǐchéng xuéyín màn zébùnéng lìjīng xiǎn zào zébùn éng 无以成学。淫慢则不能励精,险躁则不能zhìxìng nián yǔshíchíyìyǔrìqùsuìchéng kūluò 治性。年与时驰,意与日去,遂成枯落,duōbùjiēshìbēi shǒu qióng lújiāng fùhéjí 多不接世,悲守穷庐,将复何及! [译文] 君子的行为操守,从宁静来提高自身的修养,以节俭来培养自己的品德。不恬静寡欲无法明确志向,不排除外来干扰无法达到远大目标。学习必须静心专一,而才干来自学习。所以不学习就无法增长才干,没有志向就无法使学习有所成就。放纵懒散就无法振奋精神,急躁冒险就不能陶冶性情。年华随时光而飞驰,意志随岁月而流逝。最终枯败零落,大多不接触世事、不为社会所用,只能悲哀地坐守着那穷困的居舍,其时悔恨又怎么来得及? 这篇文章当作于蜀汉建兴十二年(元234年),是诸葛亮晚年写给他八岁的

儿子诸葛瞻的一封家书。诸葛亮一生为国,鞠躬尽瘁,死而后已。他为了蜀汉国家事业日夜操劳,顾不上亲自教育儿子,于是写下这篇书信告诫诸葛瞻。

诫子书字词与全文翻译

15 诫子书 原文:夫君子之行,静以修身,俭以养德。非淡泊无以明志,非宁静无以致远。夫学须静也,才须学也,非学无以广才,非志无以成学。淫慢则不能励精,险躁则不能治性。年与时驰,意与日去,遂成枯落,多不接世,悲守穷庐,将复何及! 译:君子的品行,依靠内心安静集中精力来修养身心,依靠俭朴节约的作风来培养品德。不清心寡欲,就没有什么可以拿来使自己实现远大目标。学习必须静心专一,增长才干必须刻苦学习,不刻苦学习就无法增长才干,没有坚定不移的志向就无法使学业成功。放纵懈怠就不能振奋精神,轻薄浮躁就不能修养性情。年纪随同时光而疾速逝去,意志随同岁月而消失,最终像枯枝落叶凋落、衰残,对社会没有任何贡献,只有悲伤地困守在自己的穷家破舍里,到那时再悲伤叹息又怎么来得及! 字词: 1.夫:助词,用于句首,表示发端。 2.君子:指有才德的人。 3.静:屏除杂念和干扰,宁静专一。(原文指淡泊宁静) 4.以:连词,表示后者是前者的目的。(“以观沧海”“以塞忠谏之路”) 5.之:的,助词。 6.养德:培养品德。 7.淡泊:内心恬淡,不慕名利。淡,恬淡。泊,安静,恬静。 8.宁:宁静,安定。 9.远:远大目标。(形容词活用作名词)

10.无以:没有什么可以拿来,没办法。(以:同样表目的) 11.明志:明确志向。明,明确、坚定。志,(坚定不移的)志向。 12.致远:达到远大目标。致,达到。 13.广才:增长才干。(名词活用作动词) 广,增长(形容词活用作动词)才:才干(名词) 14.淫慢:放纵懈怠。淫,放纵。慢,懈怠。 15.励精:振奋精神。励,振奋。 16.险躁:轻薄浮躁。与上文“宁静”相对而言。险,轻薄。 17.能:能够。 18.治性:修养性情。治,修养。 19.年与时驰:年纪随同时光而疾速逝去。 年:年纪。驰,疾行,指迅速逝去。 20.意与日去:意志随同岁月而消失。意:意志。 21.遂:最终,终于。 22.日;岁月。原指太阳。这里指消失。 23.枯落:凋落,衰残。比喻人年老志衰,没有用处。(本指树叶凋落) 24.多不接世:意思是,大多对社会没有任何贡献。 接,承接。世,社会。 25.守:困守。 26.穷庐:穷困潦倒之人住的陋室。 27.将复何及:又怎么来得及。将,连词,又。复,又;再。何,怎么。及,来得及。

西湖七月半 张岱(原文及译文)

西湖七月半张岱 西湖七月半,一无可看,只可看看七月半之人。看七月半之人,以五类看之。其一,楼船箫鼓,峨冠盛筵,灯火优傒(xī),声光相乱,名为看月而实不见月者,看之。其一,亦船亦楼,名娃闺秀,携及童娈,笑啼杂之,环坐露台,左右盼望,身在月下而实不看月者,看之。其一,亦船亦声歌,名妓闲僧,浅斟低唱,弱管轻丝,竹肉相发,亦在月下,亦看月,而欲人看其看月者,看之。其一,不舟不车,不衫不帻(zé),酒醉饭饱,呼群三五,跻(jī)入人丛,昭庆、断桥,嚣呼嘈杂,装假醉,唱无腔曲,月亦看,看月者亦看,不看月者亦看,而实无一看者,看之。其一,小船轻幌,净几暖炉,茶铛chēng)旋(xuàn)煮,素瓷静递,好友佳人,邀月同坐,或匿(nì)影树下,或逃嚣里湖,看月而人不见其看月之态,亦不作意看月者,看之。 杭人游湖,巳(sì)出酉(yǒu)归,避月如仇。是夕好名,逐队争出,多犒门军酒钱,轿夫擎燎,列俟岸上。一入舟,速舟子急放断桥,赶入胜会。以故二鼓以前,人声鼓吹,如沸如撼,如魇(yǎn)如呓(yì),如聋如哑,大船小船一齐凑岸,一无所见,止见篙(gao)击篙,舟触舟,肩摩肩,面看面而已。少刻兴尽,官府席散,皂隶喝道去。轿夫叫船上人,怖以关门,灯笼火把如列星,一一簇拥而去。岸上人亦逐队赶门,渐稀渐薄,顷刻散尽矣。 吾辈始舣(yǐ)舟近岸。断桥石磴(dèng)始凉,席其上,呼客纵饮。此时月如镜新磨,山复整妆,湖复颒(huì)面,向之浅斟低唱者出,匿影树下者亦出,吾辈往通声气,拉与同坐。韵友来,名妓至,杯箸(zhù)安,竹肉发。月色苍凉,东方将白,客方散去。吾辈纵舟,酣睡于十里荷花之中,香气拍人,清梦甚惬。 西湖七月半(译文) 西湖的七月半,没有什么可看的,只可以看看七月半的人。看七月半的人,可以分五类来看。其中一类,坐在有楼饰的游船上,吹箫击鼓,戴着高冠,穿着漂亮整齐的衣服,灯火明亮,优伶、仆从相随,乐声与灯光相错杂,名为看月而事实上并未看见月亮的人,可以看看这一类人。一类,也坐在游船上,船上也有楼饰,带着有名的美人和贤淑有才的女子,还带着美童,嘻笑中夹着打趣的叫喊声,环坐在大船前的露台上,左盼右顾,置身月下但其实并没有看月的人,可以看看这一类人。一类,也坐着船,也有音乐和歌声,跟著名歌妓、清闲僧人一起,慢慢喝酒,曼声歌唱,箫笛、琴瑟之乐轻柔细缓,萧管伴和着歌声齐发,也置身月下,也看月,而又希望别人看他们看月,这样的人,可以看看这一类人。又一类,不坐船不乘车,不穿长衫也不带头巾,喝足了酒吃饱了饭,叫上三五个人,成群结队地挤入人丛,在昭庆寺、断桥一带高声乱嚷喧闹,假装发酒疯,唱不成腔调的歌曲,月也看,看月的人也看,不看月的人也看,而实际上什么也没有看见的人,可以看看这一类人。还有一类,乘着小船,船上挂着细而薄的帏幔,茶几洁净,茶炉温热,茶铛很快地把水烧开,白色瓷碗轻轻地传递,约了好友美女,请月亮和他们同坐,有的隐藏在树荫之下,有的去里湖逃避喧闹,尽管在看月,而人们看不到他们看月的样子,他们自己也不刻意看月,这样的人,可以看看。 杭州人游西湖,上午十点左右出门,下午六点左右回来,如怨仇似地躲避月亮。这天晚上爱虚名,一群群人争相出城,多赏把守城门的士卒一些小费,轿夫高举火把,在岸上列队等候。一上船,就催促船家迅速把船划到断桥,赶去参加盛会。因此二鼓以前人声和鼓乐声恰似水波涌腾、大地震荡,又犹如梦魇和呓语,周围的人们既听不到别人的说话声,又无法让别人听到自己说话的声音;大船小舟一起靠岸,什么也看不见,只看到船篙与船篙相撞,船与船相碰,肩膀与肩膀相摩擦,脸和脸相对而已。一会儿兴致尽了,官府宴席已散,由衙役吆喝开道而去。轿夫招呼船上的人,以关城门来恐吓游人,使他们早归,灯笼和火把像一行行星星,一一簇拥着回去。岸上的人也一批批急赴城门,人群慢慢稀少,不久就全部散去了。 这时,我们才把船靠近湖岸。断桥边的石磴也才凉下来,大家坐在上面,招呼客人开怀畅饮。此时月亮仿佛刚刚磨过的铜镜,光洁明亮,山峦重新整理了容妆,湖水重新整洗面目。原来慢慢喝酒、曼声歌唱的人出来了,隐藏树荫下的人也出来了,我们这批人去和他们打招呼,拉来同席而坐。风雅的朋友来了,出名的歌妓也来了,杯筷安置,歌乐齐发。直到月色灰白清凉,东方即将破晓,客人刚刚散去。我们这些人放船在十里荷花之间,畅快地安睡,花香飘绕于身边,清梦非常舒适。

诫子书原文及翻译

《诫子书》原文及翻译 原文:夫君子之行,静以修身,俭以养德。 字词:夫:助词,用于句首,表示发端。君子:指有才德的人。静:屏除杂念和干扰,宁静专一。(原文指淡泊宁静)以:连词,表示后者是前者的目的。(“以观沧海”“以塞忠谏之路”)之:的,助词。养德:培养品德。 译文:君子的品行,依靠内心安静集中精力来修养身心,依靠俭朴节约的作风来培养品德。原文:非淡泊无以明志,非宁静无以致远。 字词:淡泊:内心恬淡,不慕名利。淡,恬淡。泊,安静,恬静。宁:宁静,安定。远:远大目标。(形容词活用作名词)明志:明确志向。明,明确、坚定。志,(坚定不移的)志向。致远:达到远大目标。致,达到。 译文:不清心寡欲,就没有什么可以拿来使自己实现远大目标。 原文:夫学须静也,才须学也, 字词: 译文:学习必须静心专一,增长才干必须刻苦学习, 原文:非学无以广才,非志无以成学。 字词:广才:增长才干。(名词活用作动词)广,增长(形容词活用作动词)才:才干(名词)无以:没有什么可以拿来,没办法。(以:同样表目的) 译文:不刻苦学习就无法增长才干,没有坚定不移的志向就无法使学业成功。 原文:淫慢则不能励精,险躁则不能治性。 字词:.淫慢:放纵懈怠。淫,放纵。慢,懈怠。励精:振奋精神。励,振奋。险躁:轻薄浮躁。与上文“宁静”相对而言。险,轻薄。.能:能够。治性:修养性情。治,修养。 译文:放纵懈怠就不能振奋精神,轻薄浮躁就不能修养性情。 原文:年与时驰,意与日去, 字词:.年与时驰:年纪随同时光而疾速逝去。年:年纪。驰,疾行,指迅速逝去。 意与日去:意志随同岁月而消失。意:意志。日;岁月。原指太阳。这里指消失。 译文:年纪随同时光而疾速逝去,意志随同岁月而消失, 原文:遂成枯落,多不接世, 字词:遂:最终,终于。枯落:凋落,衰残。比喻人年老志衰,没有用处。(本指树叶凋落)多不接世:意思是,大多对社会没有任何贡献。接,承接。世,社会。 译文:最终像枯枝落叶凋落、衰残,对社会没有任何贡献, 原文:悲守穷庐,将复何及! 字词:.守:困守。穷庐:穷困潦倒之人住的陋室。将复何及:又怎么来得及。将,连词,又。复,又;再。何,怎么。及,来得及。 译文:只有悲伤地困守在自己的穷家破舍里,到那时再悲伤叹息又怎么来得及!

西湖游记袁宏道

西湖游记袁宏道 各位读友大家好,此文档由网络收集而来,欢迎您下载,谢谢 篇一:西湖游记两则 《西湖游记两则》习题精选 一、填空题 1.本文是明代袁宏道的一篇______小品,文章主要采用了______和_____的表达方式,抒发了作者__________的思想感情以及高雅的志趣。 2.《西湖一》描绘西湖全景的句子是:__________、__________、__________、__________。”作者分别从___觉和___觉的角度,写出了西湖的美丽景象。 3.《西湖二》第2段写了________至________一带的景物,作者由________及________,着力渲染了西湖“________”的特点。 参考答案 1.山水;描写;抒情;热爱大自然 2. 山色如娥;花光如颊;温风如酒;

波纹如绫;视;嗅 3.断桥;苏堤;物人艳冶 二、阅读分析题 下面是明代作家张岱《西湖七月半》中的一段文字,阅读后试比较它与课文各写了游人在什么时间的什么活动。突出了游人的什么特点? 小船轻幌(薄薄的帷慢),净几煖炉,茶铛(小锅)旋煮,素瓷静递,好友佳人,邀月同坐,或匿隐树下,或逃嚣(逃避喧哗)里湖(西湖靠里的部分),看月而人不见其看月之态,亦不作意看月者,看之。 参考答案: 《西湖七月半》写了游人白天游湖的盛况,课文写了士大夫湖边赏月的情景;《西湖七月半》突出了游人的闲适和清雅,课文则着重写出了游人的“多”和“绝冶”。 《西湖游记两则》习题精选1 作者:加入日期:06-01-15 西湖游记二则习题精选

一、给下列加重的字注音。 保叔塔突兀棹小舟花光如颊为朝烟为夕岚石篑数为余言罗纨之盛夕 舂未下 二、解释下列加重的词。 1.望保叔塔突兀层崖中_______________________________ 2.花光如颊_______________________________ 3.已不觉目酣神醉_______________________________ 4.余时为桃花所恋_______________________________ 三、翻译下列句子。 山色如娥,花光如颊,温风如酒,波纹如绫。 四、阅读《西湖二》,回答问题。 西湖二 1.《西湖二》的作者_________,与其兄宗道、弟中道都是______朝反复古主义运动的“公安派”的代表人物,时称

明张岱《陶庵梦忆西湖七月半》阅读试题答案及翻译译文

[明]张岱《陶庵梦忆|西湖七月半》阅读 试题答案及翻译译文 [明]张岱《陶庵梦忆|西湖七月半》阅读试题答案及翻译译文 西湖七月半 [明]张岱 西湖七月半,一无可看,止可看看七月半之人。 看七月半之人,以五类看之。其一,楼船箫鼓,峨 冠盛筵,灯火优傒,声光相乱,名为看月而实不见月者,看之;其一,亦船亦楼,名娃闺秀,携及童娈,笑啼杂之,环坐露台,左右盼望,身在月下而实不看月者,看之;其一,亦船亦声歌,名妓闲僧,浅斟低唱,弱管轻丝,竹肉相发,亦在月下,亦看月而欲人看其看月者, 看之;其一,不舟不车,不衫不帻,酒醉饭饱,呼群三五,跻入人丛,昭庆、断桥,嚣呼嘈杂,装假醉,唱无 腔曲,月亦看,看月者亦看,不看月者亦看,而实无一 看者,看之;其一,小船轻幌,净几暖炉,茶铛旋煮, 素瓷静递,好友佳人,邀月同坐,或匿影树下,或逃嚣 里湖,看月而人不见其看月之态,亦不作意看月者,看之。 杭人游湖,巳出酉归,避月如仇。是夕好名,逐队

争出,多犒门军酒钱,轿夫擎燎,列俟岸上。一入舟, 速舟子急放断桥,赶入胜会。以故二鼓以前,人声鼓吹,如沸如撼,如魇如呓,如聋如哑。大船小船,一齐凑岸,一无所见,止见篙击篙,舟触舟,肩摩肩,面看面而已。少刻兴尽,官府席散,皂隶喝道去。轿夫叫船上人,怖 以关门,灯笼火把如列星,一一簇拥而去。岸上人亦逐 队赶门,渐稀渐薄,顷刻散尽矣。 吾辈始舣舟近岸,断桥石磴始凉,席其上,呼客纵饮。此时月如镜新磨山复整妆湖复颒面向之浅斟低唱者 出匿影树下者亦出吾辈往通声气拉与同坐。韵友来,名 妓至,杯箸安,竹肉发。月色苍凉,东方将白,客方散去。吾辈纵舟,酣睡于十里荷花之中,香气拍人,清梦 甚惬。 ——选自《说库》本《陶庵梦忆》 16.对下列句子中加点词的解释,不正确的一项是 A.灯火优傒优良B.竹肉相发歌喉 C.茶铛旋煮不久D.轿夫擎燎火炬 17.下列各组句子中,加点词的意义和用法相同的 一组是 A.以五类看之惧谗邪,则思正身以黜恶 B.看月而人不见其看月之态日月忽其不淹兮,春与

西湖七月半

《西湖七月半》 一、单项选择题 1.明代著名散文家张岱的号是() A.宗子 B.石公 C.陶庵 D.剡溪 2.下列属于张岱散文集的是() A.《壮悔堂文集》 B.《西湖梦寻》 C.《浮生六记》 D.《饮冰室合集》 3.下列明清作家中,创作以小品文见长的是() A.蒲松龄 B.侯方域 C.张岱 D.归有光 4.下列关于张岱的小品文,表述错误的是() A.全部收录于《西湖梦寻》 B.多是对往日繁华景象的追怀 C.像一幅幅色彩明丽的风俗画 D.特别重视对世态人情和众生相的细致考察和描写 5.《西湖七月半》选自() A.《陶庵梦忆》 B.《饮冰室合集》 C.《西湖梦寻》 D.《壮悔堂文集》 6.《西湖七月半)是张岱的一篇游记散文,其中“七月半”是指下列哪个节日() A.上元节 B.中元节 C.七夕节 D.中秋节 7.《西湖七月半》中概写“名娃闺秀”与看月关系的语句是() A.身在月下而实不看月 B.看月而人不见其看月之态,亦不作意看月 C.名为看月而实不见月 D.亦在月下,亦看月,而欲人看其看月 8.杭州人游湖一般是“已出酉归,避月如仇”,而在七月半却“逐队争出”.这表明他们“( )”的心态。 A.自然而然 B.随意 C.好名 D.雅俗共赏

二、多项选择题 1.《西湖七月半》所写的五类“七月半赏月之人”中,在夜深时分被“吾辈”“拉与同坐”的有() A. “匿影树下”者 B. “环坐露台”者 C. “浅斟低唱”者 D. “不衫不帻”者 2.《西湖七月半》嘲讽的对象有() A.达官显贵 B.文人雅士 C.江湖隐士 D.市井百姓 3.《西湖七月半》的写作特色有() A.多用拟人 B.铺陈排比 C.善用对比 D.语言生动 4.下列作品,善于场面描写的有() A.《垓下之国》 B.《马伶传》 C.《香市》 D.《西湖七月半》 三.填空题 1.文笔清新,时杂诙谐,饶有情趣,作品多写山水景物、日常琐事,著有《陶庵梦忆》的作家是______________。 2.张岱的文学创作以________________见长。 3.除《陶庵梦忆》外,张岱的另一部散文名作是《_____________》。 4.在《西湖七月半》中,作者描述了明末___________(城市名)人七月半游西湖的盛况。 四、词语解释题 1.楼船 ..,声光相乱。 ..箫鼓,峨冠 ..盛筵,灯火优傒 楼船: 峨冠: 优傒: 2.亦船亦楼,名娃 ..闺秀,携及童娈.,笑啼杂之,环.坐露台,左右盼望。 名娃: 娈: 环: 3.名妓闲僧,浅斟低唱,弱管轻丝,竹肉 ..相发。 竹: 肉:

初中语文 文言文 诸葛亮《诫子书》原文及译文(通用)

诸葛亮《诫子书》原文及译文 1、原文 夫君子之行,静以修身,俭以养德,非淡(澹)泊无以明志,非宁静无以致远。夫学须静也,才须学也,非学无以广才,非志无以成学。淫慢则不能励精,险躁则不能治性。年与时驰,意与日去,遂成枯落,多不接世,悲守穷庐,将复何及!——本文选自《诸葛亮集》。(题目是后人加的) 2、译文 品德高尚、德才兼备的人,是依靠内心安静精力集中来修养身心的,是依靠俭朴的作风来培养品德的。不看清世俗的名利就不能明确自己的志向,不身心宁静就不能实现远大的理想。学习必须专心致志,增长才干必须刻苦学习。不努力学习就不能增长才智,不明确志向就不能在学习上获得成就。过度享乐和怠惰散漫就不能奋发向上,轻浮急躁就不能陶冶性情。年华随着光阴流逝,意志随着岁月消磨,最后就像枯枝败叶那样(成了无所作为的人)对社会没有任何用处,(到那时,)守在破房子里,悲伤叹息,又怎么来得及呢?(穷庐,亦可解为空虚的心灵。)有道德修养的人,他们是这样进行修炼的:(夫君子之行) 他们以静心反思警醒来使自己尽善尽美。(静以修身) 以俭朴节约财物来培养自己的高尚品德。(俭以养德) 除了清心寡欲、淡泊名利,没有其他办法能够使自己的志向明确清晰、坚定不移。(非淡泊无以明志) 除了平和清静,安定安宁,没有其他办法能够使自己为实现远大理想而长期刻苦学习。(非宁静无以致远) 要想学得真知,必须生活安定,使身心在宁静中专心研究探讨。(夫学须静也)人们的才能必须从不断的学习之中积累。(才须学也) 除了下苦功学习,没有其它办法能够使自己的才干得到增长、广博与发扬。(非学无以广才) 除了意志坚定不移,没有其它办法能够使自己的学业有所进、有所成。(非志无

〈西湖七月半〉翻译

補充〈西湖七月半〉張岱撰座號: 姓名: 西湖七月半,一無可看,止可看看七月半之人。看七月半之人,以五類看之。其一,樓船簫鼓1,峨冠2盛筵,燈火優傒3,聲光相亂,名為看月而實不見月者,看之4。其一,亦船亦樓,名娃閨秀,攜及童孌,笑啼5雜之,環坐露台6,左右盼望,身在月下而實不看月者,看之。其一,亦船亦聲歌,名妓閑僧7,淺斟低唱8,弱管輕絲,竹肉相發9,亦在月下,亦看月,而欲人看其看月者,看之。其一,不舟不車,不衫不幘10,酒醉飯飽,呼群三五,躋入人叢,昭慶11、斷橋12,嘄呼13嘈雜,裝假醉,唱無腔曲,月亦看,看月者亦看,不看月者亦看,而實無一看者,看之。其一,小船輕幌14,淨几暖爐,茶鐺旋煮,素瓷15靜遞,好友佳人,邀月同坐,或匿影樹下,或逃囂裏湖16,看月而人不見其看月之態,亦不作意17看月者,看之。 杭人遊湖,巳出酉歸18,避月如仇。是夕好名,逐隊爭出,多犒門軍19酒錢,轎夫擎燎,列俟20岸上。一入舟,速舟子急放斷橋,趕入勝會21。以故二鼓以前,人聲鼓吹22,如沸如撼,如魘如囈23,如聾如啞,大船小船一齊湊岸,一無所見,止見篙擊篙,舟觸舟,肩摩肩,面看面而已。少刻興盡,官府席散,皂隸24喝道去。轎夫叫船上人,怖以關門25,燈籠火把如列星,一一簇擁而去。岸上人亦逐隊趕門26,漸稀漸薄,頃刻散盡矣。 1〔樓船簫鼓〕:有樓臺裝飾且配置聲樂的遊船 2〔峨冠〕:高聳的帽子,指高官。峨冠博帶是古時士大夫服裝。〈賣柑者言〉:「峨大冠,拖長紳者,昂昂乎廟堂之器也。」3〔優傒〕:歌妓和僕役。優,優伶。傒,同「奚」,本指囚犯的子女,後借指奴僕。 4〔看之〕:意為可以看看這一類人。 5〔童孌〕:即孌童,漂亮的男童。〔啼〕:叫喊聲。 6〔露臺〕:指樓船前部的平臺。 7〔閑僧〕:和尚。和尚不問世俗,從容閒暇,故云。 8〔淺斟低唱〕:慢慢地斟酒,輕聲地歌唱。 9〔竹肉相發〕:簫管伴和著歌唱聲。竹,指竹製的管樂器。肉,指歌喉。 10〔不衫不幘〕:意為衣冠不整。不穿長衫,也不戴頭巾。幘,ㄗㄜˊ,頭巾。 11〔昭慶〕:昭慶寺,在西湖東北隅岸上,為宋明以來的著名僧寺。西湖名勝之一。 12〔斷橋〕:西湖名勝之一,在西湖白堤上,原名寶祐橋,唐代稱斷橋。 13〔嘄呼〕:高聲亂叫。嘄,通「囂」。 14〔輕幌〕:細薄的帷幔。幌,布幔。 15〔茶鐺〕:煮茶的鍋。〔素瓷〕:雅潔精緻的瓷杯。 16〔匿影〕:藏身。/〔裏湖〕:在蘇堤西部,孤山北邊。金沙堤與蘇堤東浦橋相接,北面是岳王廟,南面為裏湖。 17〔作意〕:存心,有意。故意做作。 18〔巳出酉歸〕:巳時出城,酉時返回。巳時,上午九點至十一點。酉時,下午五點至七點。 19〔犒門軍〕:犒賞守門軍士。犒,用酒食或財物慰勞。 20〔擎燎〕:舉著火把。/〔列俟〕:列隊等候。 21〔速舟子〕:催促船夫。/〔趕入勝會〕:趕上盛大的集會。 22〔二鼓〕:即二更。約晚上九點到十點。/〔鼓吹〕:器樂合奏的聲音。 23〔如沸如撼〕:如水沸聲,如物體震撼聲。/〔如魘如囈〕:好像人在夢中驚叫和說夢話。魘,夢裏驚叫。囈,說夢話。24〔一無所見〕:指見不到美景。/〔皂隸〕古代賤役,後專以稱官署中的衙役。 25〔喝道〕:古代官員出行,前面有差役呼喝,行人肅靜讓路。/〔怖以關門〕:關城門來恐嚇遊人,使其早歸。怖,恐嚇。26〔趕門〕:趕在城門關閉前回城

[教材]景公射出质

[教材]景公射出质 景公射出質 《說苑》 一、《說苑》简介 《說苑》,西漢劉向撰。劉向,西漢著名的經學家、目錄學家和文学家,字子政,本名更生,沛(今江苏沛县)人,楚元王交四世孙,刘歆之父,官至中垒校尉,曾領校宫廷藏書,撰成《別錄》,為我國目錄學之祖。作者同時撰有《新序》《烈女傳》等書。《說苑》是刘向根据自己校理过的图书及民间有关资料选编整理而成,共分君道、臣術、建本、立节、贵德、复恩等二十卷,旨在讽谏皇帝。其取材十分广泛,上自先秦经书诸子,下及汉人杂著,旁采街谈巷语,多为逸聞佚事,短小精煉,寓意深刻。全书反映的思想以儒家为主,兼及墨、名、法诸家,但历代著录都把它归入儒家类。全书保留了许多值得珍视的史料,对于校刊古籍有重要的参证作用。 清人卢文弨、俞樾、孙贻让等曾校理过《說苑》,近人及今人的整理本主要有向宗鲁《说苑校证》、趙善詒《說苑疏證》以及臺灣盧元駿《說苑今注今譯》等。 二、題解 本文選自《說苑?君道》。文章通過齊景公射箭脱靶而群臣齐声喝彩的故事,說明君主要听到真话很不容易,同时宣扬了人臣敢于犯颜直谏的可贵精神。三、课文讲解 【原文】 晏子沒十有七年,景公飲(yìn)諸大夫酒。公射出質,堂上唱善,若出一口。公作色太息,播弓矢。弦章入,公曰:“章~自吾失晏子,於今十有七年,未嘗聞吾過不善。今射出質,而唱善者若出一口。”弦章對曰:“此諸臣之不肖也。知不

足以知君之不善,勇不足以犯君之顔色。然而有一焉,臣聞之,君好(hào)之,則臣服之;君嗜之,則臣食(sì)之。夫尺蠖食黃則其身黃,食蒼則其身蒼。君其猶有食諂人之言乎,”公曰:“善。今日之言,章爲君,我爲臣。”是時海人入魚,公以五十乘賜弦章。章歸,魚乘塞塗。撫其御之手曰:“曩者之唱善者,皆欲若魚者也。昔者晏子辭賞以正君,故過失不掩。今諸臣諂諛以干(gān)利,故出質而唱善如出一口。今所輔於君未見於衆,而受若魚,是反晏子之義而順諂諛之欲也。”固辭魚不受。君子曰:“弦章之廉,乃晏子之遺行也。” 【注釋】 1.晏子:晏嬰,春秋時期齐国有名的賢臣,为灵公、庄公、景公三朝的正卿,执政五十余年。 2.沒: 沈也。从水从?。莫勃切〖注〗殁、歾、?,古文。同“歿”。湛也。湛各本作沈。淺人以今字改之也。今正。?者全入於水。故引伸之義訓盡。小雅。曷其?矣。傳云。?,盡也。論語?階。孔安國曰。?,盡也。凡貪?,乾?皆沈溺之引伸。莫勃切。 3.景公:齊景公,名杵臼,庄公弟。飲:使動用法。酒:就也。所以就人性之善惡。 賓主百拜者,酒也。淫酗者,亦酒也。从水酉。以水泉於酉月爲之。酉亦聲。子酉切。三部。一曰造也。造古讀如就。吉凶所造起也。古者儀狄作酒醪。禹嘗之而美。遂疏儀狄。見戰國策。杜康作秫shú酒。又見巾部。曰少康作箕帚秫酒。少康者,杜康也。按許書事物原始皆用世本。此皆出世本。 4.射:弓弩發於身而中於遠也。从矢从身。射,篆文?从寸。寸,法度也。亦手也。食夜切。篆文?。射者小篆。則?者古文。何不以射入寸部而以?傅見也。爲其

西施咏翻译、解析

西施咏 唐代:王维 艳色天下重,西施宁久微。 朝为越溪女,暮作吴宫妃。 贱日岂殊众,贵来方悟稀。 邀人傅香粉,不自著罗衣。 君宠益娇态,君怜无是非。 当时浣纱伴,莫得同车归。 持谢邻家子,效颦安可希。 译文 艳丽的姿色向来为天下器重,美丽的西施怎么能久处低微? 原先她是越溪的一个浣纱女,后来却成了吴王宫里的爱妃。 平贱时难道有什么与众不同?显贵了才惊悟她丽质天下稀。 曾有多少宫女为她搽脂敷粉,她从来也不用自己穿著罗衣。 君王宠幸她的姿态更加娇媚,君王怜爱从不计较她的是非。 昔日一起在越溪浣纱的女伴,再不能与她同车去来同车归。 奉告那盲目效颦的邻人东施,光学皱眉而想取宠并非容易! 注释 西施:吴越春秋:越得苎萝山鬻薪之女,曰西施,郑旦,饰以罗谷,教以容步,三年学成而献于吴。 傅香粉:即搽脂敷粉。香:一作“脂”。 浣纱:环宇记:会稽县东有西施浣纱石。水经注:浣纱溪在荆州,为夷陵州西北,秋冬之月,水色净丽。 持谢:奉告。 效颦:庄子:西施病心而颦,其里之丑人见而美之,归亦捧心而效其颦,富人见之,闭门而不出,贫人见之,挈妻子而去之,彼知美颦而不知颦之所以美。按:颦古作膑。 安可希:怎能希望别人的赏识。 创作背景 《西施咏》作于天宝时期。王维所处的盛唐时代,在繁华的外衣下隐藏着政治危机:奸邪小人把持朝廷大权,纨绔子弟凭着裙带关系飞黄腾达,;才俊之士却屈居下层,无人赏识。而“读书三十年”的儒生,却“腰下无尺组”,“一生自穷苦”。 赏析

诗人所处的盛唐时代,在繁华的外衣下隐藏着政治危机:奸邪小人把持朝廷大权,纨绔子弟凭着裙带关系飞黄腾达,甚至连一些斗鸡走狗之徒也得到了君王的恩宠,身价倍增,飞扬跋扈;才俊之士却屈居下层,无人赏识。而“读书三十年”的儒生,却“腰下无尺组”,“一生自穷苦”。 王维以这首诗来借咏西施,以喻为人。《西施咏》取材于历史人物,借古讽今。诗人借西施“朝贱夕贵”,而浣纱同伴中仅她一人命运发生改变的经历,悲叹世态炎凉,抒发怀才不遇的不平与感慨;借世人只见显贵时的西施之美,表达对势利小人的嘲讽;借“朝为越溪女”的西施“暮作吴宫妃”后的骄纵,讥讽那些由于偶然机遇受到恩宠就趾高气扬、不可一世的人;借效颦的东施,劝告世人不要为了博取别人赏识而故作姿态,弄巧成拙。 诗的开首四句,写西施有艳丽的姿色,终不能久处低微。次六句写西施一旦得到君王宠爱,就身价百倍。末了四句写姿色太差者,想效颦西施是不自量力。语虽浅显,寓意深刻。沈德潜在《唐诗别裁集》中说:“写尽炎凉人眼界,不为题缚,乃臻斯诣。”这种评价是很中肯的。 鉴赏 此诗通过借咏西施而抒发现世感愤不平的讽刺诗,语意深微,很有普遍性。诗人通过西施的故事来发表诗人对人生的一点体会。即“贱日岂殊众,贵来方悟稀”的现象。这一现象有两种情况:一是一般人难于辨别好歹,一旦美好事物被发现后,大家才吃惊地感叹艳羡;二是某些人与事物本来也平常无奇,一旦被评为上品或提拔成高官贵妇后,大家就刮目相看,敬佩不已。 春秋时越国诸暨芋萝山的美女西施,被越王勾践选送给吴王夫差,成为吴宫邀幸擅宠、娇怜命贵的艳妃,左右了吴王,支配了吴国。当然,西施这样做是有她的政治目的,但王维的本诗并不是取材她的政治图谋,而是用她入官后艳色凌人,写令人感到厌恶的恃宠擅权的官场世态。 开始两句从通常世态的角度提出了一个很有概括性的问题:“艳色天下重,西施宁久微?”是说:天下入好德者少,重色者多,有这种社会习俗,象西施那样的人物,安能长久地处于微贱之地?因此生活中象西施这样的人物,会有被尊贵的一天,只是时机之遇的早晚。这两句是对取人不重德能的当政者的讥讽,并同时表明,那些得势者一朝之内便娇骄得判若两人,根源还在于重色者。 三四句“朝为越溪女,暮作吴宫妃”,是前两句中的有“重”而不“微"的一个突出的事实证明。一个越国的山村中的普通女子,一朝之间身价十倍,原因就是因为遇到了重艳色的人;重色

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